テモテへの手紙Ⅰ 5:4-22

テモテへの手紙Ⅰ 5:4-22 JCB

しかし、もしその人に子どもか孫がいる場合は、その責任は彼らにあります。なぜなら、親切はまず自分の家庭から、つまり困っている親の面倒をみることから始まるのです。神はそのことをたいへん喜ばれます。 教会が世話をすべき人は、身寄りのない貧しい未亡人たちです。中でも、ひたすら神に信頼し、多くの時間を祈りに費やす人たちです。 ふしだらな生活をしている未亡人は、世話をする必要がありません。彼女たちのたましいは死んでいるのです。 しかし、ほんとうに身寄りのない未亡人が非難されないように、これらのことを明確にしておきなさい。 自分の親族、ことに家族を顧みないような人は、クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。神を知らない人よりも悪いのです。 教会が認める奉仕者となる未亡人には、一定の条件をつけるべきです。すなわち、少なくとも六十歳以上で、結婚歴は一度に限らなければなりません。 また、これまで良い行いで認められ、評判の良かった人でなければなりません。次のことを調べる必要があります。子どもをりっぱに育て上げたかどうか。クリスチャンに限らず、見知らぬ旅人をも親切にもてなしたかどうか。病人や困っている人に助けの手を差し伸べたかどうか。だれにでも、やさしくふるまってきたかどうか。 若い未亡人を、そのような女性たちと同列に扱ってはいけません。それというのも、若い人はキリストへの誓いを捨てて再婚したがるからです。 その結果、初めの約束を破ったというので、きびしい非難にさらされることになります。 その上、彼女たちは怠けがちで、あちこちの家を遊び歩いては、うわさ話ばかりし、おせっかいをやきたがるのです。 それで私は、そういう若い未亡人には再婚を勧め、子どもを産み、家庭を大切にするように指導するのが一番だと思います。そうなれば、だれにも非難されずにすむでしょう。 実際、すでに教会に背を向け、悪魔の誘いに乗って道を踏みはずした未亡人がいるからです。 もう一度言いますが、身内に未亡人がいる人は、その人が面倒をみるべきです。教会に余計な負担をかけてはいけません。そうでないと、ほんとうに身寄りのない未亡人を援助することができなくなってしまいます。 与えられた仕事を忠実に果たしている牧師〔または長老〕は、それに見合う十分な報酬を受け、尊敬されるべきです。説教と教育の両方にあたっている場合は、特にそうでなければなりません。 なぜなら聖書に、「穀物を踏んで脱穀している牛に口輪をかけ、その穀物を食べるのを禁じてはいけない」、また、「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書いてあるからです。 牧師に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、取り上げてはいけません。 牧師が罪を犯しているなら、教会員全員の前で責めなさい。その悪い例にならう人を出さないためです。 私は、神と主イエス・キリストと選ばれた天使たちの前で、厳粛な思いで命じます。あなたがその人と親しい間柄であろうとなかろうと、公平に対処しなければなりません。 牧師を選ぶ時は慎重にしなさい。そうでないと、その人の罪を見のがす結果になり、あなたもその罪を黙認したことになるからです。あなたも、いっさいの罪から離れ、きよい生活をしなさい。